スンカンマカイとは



概要

    スンカンマカイとは、沖縄の方言で西洋コバルトによる型絵染付の磁器製の碗を指す言葉である(石岡, 2016)。スンカンというのは日本語の「筍干(しゅんかん)」がなまったものではないかと推測されており、筍干は広辞苑において「食器の一種。飯茶碗より大きく、ふつう羹(あつもの)を入れるのに用いる。ふたは木製の塗り物。」とされている(渡名喜, 2002)。一方、マカイは沖縄方言で碗を指すため、言葉としては通常の茶碗よりやや大きい碗を意味すると思われる。その名の通り、直径13-15cm、高さ6cmとやや大きめの碗で、口が反りかえる端反碗であることが多いのも特徴の一つである。見込みには重ね焼きの際に碗の間に挟む「ハマ」と呼ばれる窯道具の跡があることが多いが、輪状に釉剥されたものや、重ね焼きの跡がないものもある(宮城, 2002)

スンカンマカイ
もっとも代表的な文様の窓絵花文碗

見込みに松竹梅が描かれたスンカンマカイ
その周辺には5つの窪みが並んでおり、これがハマの跡である


歴史と普及

生産

    スンカンマカイは沖縄で作られた食器ではなく、愛媛県を産地とする砥部焼と呼ばれる磁器の一つである(下地, 1994: 宮城, 2002: 安斎:上原, 2015: 石岡, 2016)。砥部焼は現在も生産されており、手描きによる絵付けが施された日常用器を中心とした磁器として知られている(石岡, 2016)。一方、スンカンマカイには型絵染付という技法により絵付けが施されていた(宮城, 2002; 安斎・上原, 2015; 石岡, 2016)。型絵染付は明治11年(1877年)に伊藤允譲(五松斎)が肥前より伝えたもので(砥部町教育委員会, 1970; 伊予陶磁器協同組合, 1977)、彫刻刀で文様が彫られた柿渋紙を器にあてがい、染料を刷り込むことで文様を浮かび上がらせるという技法である(石岡, 2016)。砥部焼では、型絵染付による絵付けが大正時代に隆盛し、第二次世界大戦後も用いられたことが明らかになっている(石岡, 2016)。同時期の他の窯業地域ではすでにより安価で微細な文様を施せる銅板染付が多用されており、型絵染付が長らく用いられたことは、砥部焼の特徴の一つである。

スンカンマカイとその型紙
那覇市立壺屋焼物博物館所蔵

    スンカンマカイの生産時期は大正時代から昭和20年代と推定されており(下地, 1994; 宮城, 2002)、まさに型絵染付が盛んだった時期に生産されていたようである。製造していた窯元数は明らかではないが、後述する統制番号から少なくとも梅野製陶所(現梅山窯)と砥部陶業株式会社、窯跡の発掘資料から宮ノ瀬窯(石岡, 2016)が製造していたようである。また、東亜製作所または伊予窯業株式会社のどちらかの窯も製造していたと考えられる(多田(2017)、 石岡(2016)を参考に管理人保管の現物資料から推定)。

海外への輸出

    砥部町教育委員会(1970)によれば、大正5年から7年(1916-1918年)に砥部焼が最盛期を迎えたとされている。当時、第一次世界大戦の影響で日本製品の需要が世界的に高まり、砥部焼も東南アジアを中心に大量に輸出された。特にスンカンマカイをはじめとする型絵染付の磁器は、製造が簡易であることから海外向けに大量生産され、ライスボールや伊予ボールという名で輸出された(砥部町教育委員会, 1970; 産経新聞, 2020。その後、大戦景気の終了や満州事変などで輸出が不振となるも、東南アジア向けに伊予ボールの輸出は続いたとされる(砥部町教育委員会, 1970)。日中戦争が起きると輸出は低迷、ほどなく第二次世界大戦が始まり、昭和18年(1943年)には海外向けの輸出は中止された(砥部町教育委員会, 1970)。戦後、昭和22年(1947年)には海外向け輸出が復活し、東南アジアへの輸出が再開されるも、昭和26年(1951年)頃には輸出品の売り上げが伸びなくなり、以後国内向け製品の製造に注力していった(砥部町教育委員会, 1970)。ちなみに、輸出用の型絵染付碗の破片と思われるものが南アフリカのザンジバルやアラブ首長国連邦の遺跡から採集されており、同地域への流通も示唆されている(野上, 20202)

沖縄での普及

    沖縄でスンカンマカイが使用されたのは大正時代から昭和20年代ごろと推定されている(下地, 1994; 宮城, 2002)。先述したように、当時砥部焼は海外向けに盛んに輸出を行っており、宮城(2002)が行った聞き取りや、砥部陶業株式会社が昭和26年にビルマや台湾と共に琉球に向けて輸出していた記録が確認されていることから、海外向けの商品と同等のものを沖縄に輸出していたようである。宮城(2002)によれば、当時、本土向けには「上土」と呼ばれる質の良い土で焼いた磁器を販売していたが、沖縄や海外向けには「並土」と呼ばれるやや質の低い土を使用した磁器を販売していたとされる。また、管理人が実際に所有しているスンカンマカイを見てみると、形がゆがんでいるものや、卓に置くとグラグラするもの、印判がずれたり不鮮明なものなど、質が良いとは言えないものが非常に多く、土だけでなく製造面でも質の低いものを販売していたようである。

印判のズレとかすれ

    しかし、それでもスンカンマカイは他の本土産磁器と共に人気を博し、沖縄中の一般家庭に広く普及したことが当時の資料や遺跡の調査等からうかがい知れる。沖縄県立埋蔵文化財センターの資料や宮城(1978)によると、沖縄の伝統的な焼き物である壺屋焼の売り上げに大打撃を与えるほど普及したとされる(沖縄県立埋蔵文化財センター, 2009; 宮城, 1978)。また、県内の複数の遺跡からもスンカンマカイが大量に出土しており(沖縄県立埋蔵文化財センター, 2009; 宮城, 2002)、これらの遺跡出土品は、戦時中の私物財産避難の跡だとされている。加えて、後述の通り戦時中のみ製造されたと考えられる統制番号が付されたスンカンマカイが県内の遺跡等で多数確認されていることから、戦時中も沖縄向けに流通し、広く利用されていたことが伺える。さらに、宮城(2002)により、砥部陶業株式会社が琉球貿易(現:株式会社リウボウ)を含む沖縄県の3つの貿易会社と取引をしていたことが明らかになっており、琉球貿易の設立年代が昭和23年(1948年)であることから、戦後も沖縄向けにスンカンマカイが輸出されていたことが明らかになっている。その他、「チブヤ(壺屋)のものは汚いといって、次第に大和物のきれいなお碗を名護まちで買ってきて使うようになった。チブヤのものは捨ててしまった」という聞き取りの記録が残っているなど(宮城, 2002)、相当な人気ぶりだったようである。以下では、管理人がネット上で収集した沖縄におけるスンカンマカイの使用例である。参考程度に見ていただきたい。



これは終戦直後の沖縄収容所の映像である。2:48あたりから画面に映る食器のいくつかはスンカンマカイである可能性が高い。


上記のリンクは瀬底島のシヌグ祭(沖縄各地で見られる豊年祈願の行事)を訪れた方のブログだが、ミキをよそう器にスンカンマカイが使用されている。


    現在の沖縄島では、山中や河川沿い、海岸などでスンカンマカイの破片を確認することができる。野外で見つかる古い陶磁器片やガラス瓶などは、昔の人々が廃棄したものであったり、先述した戦時中の財産避難のあとだと推測され、スンカンマカイの破片たちもそういう人々の暮らしのあとであろう。場所によってはものすごい数の破片が見つかることもあり、その様子からも当時の普及率をうかがい知ることができる。

山中で撮影した陶磁器やガラス
スンカンマカイの他、壺屋焼や飲料瓶もある

海岸に漂着していた窓絵花文と思われる破片

第二次世界大戦下の生産

    昭和12年(1937年)に日中戦争がはじまると、国内では「輸入品等に関する臨時措置に関する法律」に基づき、戦争遂行のための確保・統制が本格化した(多田, 2017)。陶磁器産業においても、日本陶磁器工業組合連合会が原料の配給統制を行うことになり、昭和15年(1940年)には、連合会の定款に基づく統制番号が付された陶磁器類の生産が始まった。これらの陶磁器類は、一般に統制陶器と呼ばれる。昭和19年(1944年)には、愛媛県の伊予陶磁器工業組合が伊予陶磁器工業統制組合に改組し、砥部焼も原材料や生産が統制され、生活必需品のみの製造に限られた(砥部町教育委員会, 1970)。この頃の砥部焼にも統制番号が付されたことが明らかになっており、〇の中にカタカナの「ト」と、その下に番号が記された(宮城, 2002; 安斎・上原, 2015;石岡, 2016; 多田, 2017)。スンカンマカイも物資統制下で生産されたことが明らかになっており(宮城, 2002; 安斎・上原, 2015;石岡, 2016; 多田, 2017)、沖縄県からも統制番号が付されたスンカンマカイが複数発見されている(宮城, 2002; 安斎・上原, 2015;石岡, 2016)。一方、多田・藤本(2020)は、統制番号が記されたいくつかの資料において〇の上下に一か所ずつ切れ目があることを指摘しており、さらに水地(1959)内で示された伊予陶磁器協同組合(伊予陶磁器工業統制組合の後身)の製品マークも同様のデザインであることや、組合名が「砥部陶磁器~」ではなく「伊予陶磁器~」であることから、「〇の中にト」ではなく「イヨ(伊予)」を変形させたものではないかと結論付けている。砥部焼では、統制番号は生産した窯元ごとに振られており、以下の番号と生産者が確認されている。


砥部焼の統制番号と生産者およびスンカンマカイにおける確認の有無
石岡(2016)、多田(2017)を参考に作成


統制番号「11」が付されたスンカンマカイ
砥部陶業株式会社製と推定される

    統制陶器は全国的に昭和21年(1946年)頃まで生産され(安斎・上原, 2015)、砥部焼においても、伊予陶磁器工業統制組合が昭和22年(1947年)に伊予陶磁器工業協同組合に改組していることから、同年代頃まで生産していたのではないかと推測されるが、詳細は不明である。

模倣品?


 管理人が収集した磁器の中に、大変興味深いものがある。以下の写真は、胡差焼という戦後の沖縄市に存在した胡差焼窯元という窯元が製造していた焼物の一つで(参考:レファレンス協同データベース、形状は直口(すぐくち、口縁が反らず真っすぐなこと)だが、側面の模様がスンカンマカイの窓絵花文碗に酷似している。資料等はないため定かではないが、スンカンマカイを模倣した製品なのではないかと考えられる(管理人私信)。


胡差焼の直口碗
詳しくはこちらのページで紹介している

スンカンマカイの窓絵花文碗


終わりに

    スンカンマカイの存在を知った時は「こんなにも面白い歴史が沖縄にあったのか!」ととてもワクワクしたのを覚えている。その歴史を調べながら実物を収集する過程で、その存在をもっと世に広めていきたいと思い、このウェブサイトを作成した。スンカンマカイは当時実際に使っていた世代には馴染み深い食器ではある一方、そうではない世代間では、管理人自身が見聞きしている限り、知らない方も多い食器である。さらに、私が以前訪れた骨董屋の店主は「私は幼少期に使っていた。昔の沖縄の食器だ。」と話していた。当時使っていた方でも、沖縄の食器だと勘違いするほど普及していたようである。拙文ではあるが、このホームページを読んでくださった方々がスンカンマカイについて知り、少しでも興味を持っていただけたのであれば、大変嬉しく思う。
    本サイトでは、管理人が収集しているスンカンマカイを紹介しているほか、スンカンマカイが資料として実際に展示されている施設なども紹介している。興味を持った方は是非、実物をご覧になっていただきたい。

様々なスンカンマカイの紹介ページはこちら

スンカンマカイが展示されている施設紹介はこちら

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